1999年春。派遣社員の黒田マイコは、赤坂のタワービルにあるLマン・ブラザーズ証券東京オフィスに勤務していた。求職活動中のため、短期契約の仕事を選んだのである。
仕事はデリバティブ・ファイナンシャル・クラーク。たいそうな肩書きだが、契約書類をファイリングするだけの単純な業務だ。少しの英語とPCスキルがあれば誰にでもできる。一日分の仕事は午前中に片付いてしまう。
バブル経済崩壊後も、アメリカの証券会社は景気がよく、どんな企業よりも時給が高かった。マイコは、まあまあ満足できる額をもらいながらも、午後5時までの就労時間が長く感じられ退屈でしかたがなかった。
そんなある日、郵便を出しに地下4階のメールルームを訪れたマイコは、床下からエンジンのような音と振動を感じた。
マイコの頭にふと浮かんだのが、「実はこのビルは宇宙船なのだ。」という妄想である。
実際、この地上36階のタワービルには、金融をはじめ、外資系企業のオフィスや最先端技術のショールームがあり、世界中から集められた情報と優秀な頭脳、そしてさまざまな人種のサンプルが揃っているのだ。
屋上には都市型農業試験場としての緑地もあるし、地下街には各国の味が楽しめるレストランだって入っている。
「きっと地下5階より下に巨大なエンジンルームがあるに違いない・・・。守衛さんに相談しても無駄だ。なぜなら彼らは全員エイリアンだから・・・。そういえば、感じの良すぎるアメリカ人上司だってあやしい・・・。」
そう考え出すと妄想が止まらない。マイコは、「宇宙船で連れ去られる前に逃げよう。」と脱出ルートを綿密に計画しはじめた。もちろんそれは暇つぶしの妄想、のはずだった。
宇宙船離陸の時は突然やってきた。
3月14日金曜の16:45分。轟音とともに建物全体が振動しはじめた。社員たちは悲鳴をあげ口々に「地震だ!」と叫びながら、皆いっせいに身をかがめた。
マイコはひとりバッグもコートも持たずに、直通エレベーターに飛び乗り“L”のボタンを押し続けた。動いた!地上階に着くと、隣接するコンサートホール前の広場まで全力で走った。
息を切らしながら、ほっとしたその瞬間、信じられないことが起こった。地面ごと宙に浮かび上がったのだ。
まわりにいた人々も騒ぎ出し、広場はパニック状態になった。
コンサートホールや放送局、ホテルや公園を含むヒルズ全体が巨大宇宙船だったのである。
超高速で急上昇しながら、マイコは、Ark=箱舟、Hills=異界へ通じる門のある丘 ・・・とつぶやいていた。
完
(もちろんフィクションです。)